九谷茶碗まつり 〔石川県イベント〕

毎年5月3,4,5日のゴールデンウイークにかけて、工芸作家から日常食器まで、九谷焼の特設店約50店が立ち並ぶ、年に一度の特価奉仕市。県内外から20万人以上が来場する。
平成26年度より能美市九谷焼産地の中心地である九谷陶芸村に会場を移し、絵付け体験、窯元・作家工房めぐりなど様々なイベントが催される。地域のグルメコーナーも。

九谷焼協同組合
石川県陶磁器商工業協同組合

九谷焼 くたにやき 〔石川県〕

石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器。

鉱山開発の最中、領内の九谷村で磁器の原料となる陶石が発見されたことをきっかけに、大聖寺藩を治めていた初代藩主の前田利治のもとで、江戸時代前期(1655年)に作り始められたが、約50年後に突然廃窯となる。この時期に作られた九谷焼は、後に「古九谷」と呼ばれる。

古九谷の制作中止から約100年後の文化4年(1807年)、大聖寺藩の親元の藩である加賀藩の城下町金沢で、磁器生産が再開される。「春日山窯」「吉田屋窯」「宮本屋窯」「松山窯」など数々の窯が加賀地方一帯に立ち、これらの窯の製品を「再興九谷」という。

明治時代〜昭和時代前期は、窯元の職人たちが作家として自立し、さらには江戸幕府を継承した明治政府の産業振興により、九谷焼の輸出産業が盛んになった。
この時代の名工として、絵付け技術の指導的立場で次世代の作家をリードした竹内吟秋・浅井一毫兄弟、北大路魯山人に陶芸を教えた初代須田菁華、赤絵と金彩による精密な色絵付けで名高い九谷庄三などがある。

昭和時代後期〜現代は、伝統的な美術工芸品としてのブランドを確立した九谷焼が、現代芸術の要素を取り入れて、「工芸品」の枠を超えた「美術品」として制作されるようになる。新たなライフスタイルにあわせた多種多様なデザインの器が生み出されることも、現代九谷焼の特徴といえる。


360年の歴史の中から生まれた様々な絵付け様式がある。

青手九谷(青九谷):緑の色絵の具を印象的に配色して絵付けされたスタイル。見込み(表面の模様)には動植物・山水・幾何模様・名画などが描かれ、素地の余白をほとんど余すことなく、器の表裏を埋めつくす塗埋手(ぬりうめで)で盛り上げて作られ、華麗豪華。
古九谷をはじめ、再興九谷の吉田屋窯、松山窯など、江戸時代の大聖寺藩領内を中心に数多くの名品が生み出された。

色絵 (五彩手):「九谷五彩」と呼ばれる、緑・黄・紫・紺青・赤の色絵の具を自在に活用して絵付けされたスタイル。5色の色絵の具をフル活用することから、「五彩手」とも呼ばれる。器の中央に、作品のモチーフを絵画的・写実的に描く。
古九谷は、中国の明王朝末期から清王朝初期にかけての色絵磁器がモデルになっているとも言われる。

赤絵 (金襴手):器全体に「細描」と呼ばれる細かい描き込みを施したスタイル。赤の色絵の具のほかに、金の飾り付けで華やかに彩られた作品が多い。背景を赤で塗り埋めた器に、金で絵付けしたスタイルは、赤絵のなかでも特に「金襴手」と呼ばれている。赤九谷とも。
京焼の名工・青木木米の指導により金沢の春日山窯で制作された作品がもととなり、その後、宮本屋窯で腕をふるった飯田屋八郎右衛門が細描の様式を確立し、近現代の赤絵作品のルーツとなった。


九谷焼協同組合
石川県九谷焼美術館

[作家]
二代浅蔵五十吉 (あさくらいそきち、1913年-1998年)文化勲章受章者
吉田美統 (よしたみのり、1932年-)重要無形文化財保持者(人間国宝)
三代徳田八十吉 (とくだやそきち、1933年-2009年)重要無形文化財保持者(人間国宝)

[窯元]
鏑木商舗
上出長右衛門窯
きぬや
乾甌窯
九谷光仙窯
九谷古青窯
九谷百万石
虚空蔵窯
大雅窯
浅蔵五十吉深香陶窯
西長峰窯
菁華窯
九谷和窯
ほか

[取扱店/作品]

越中丸山焼 えっちゅうまるやまやき 〔富山県〕

越中瀬戸焼・小杉焼とならんで越中近世三大窯の一つに挙げられる。素朴な絵付けと洋絵具の愛らしい色合いが特徴。
文政12年(1829)、京都で製陶を学んだ山本甚左衛門が郷里の丸山村で窯を開いたのが始まり。当初は経営難で苦しんだが、富山藩からの援助を受け発展した。最盛期には前口40間、奥行37間の敷地に工場、13基の窯、50人を数えたといわれる工人の住居など幾棟もの建物が立ち並び、富山湾からも見えたと伝えられる。
しかし安政5年(1858年)、安政の大地震をきっかけに次第に衰退。明治3年に甚左衛門が亡くなったあとは、販路縮小・製品の質の劣化が深刻になり、明治27年に廃窯した。
窯跡は昭和36年に市の史跡に指定されている。

三助焼 さんすけやき 〔富山県〕

富山県砺波市において、150年にわたり作り続けられている焼き物。地元で取れる土を用い、この土地が生み出した草木から釉薬を作る。淡く深い緑色の釉薬が特徴。

富山県砺波市の福山丘陵一帯は陶土に恵まれ、古くは奈良・平安時代の須恵器に始まり、生活用具と瓦の製造が行われていた。
この瓦製造の一軒であった谷口三助(嘉永元年〜明治38年)とその長男、谷口太七郎(明治7年〜昭和8年)が瓦製造の窯で壺、鉢、皿などの生活用具を作り始め、三助焼の基礎を築いた。

三助焼窯元

小杉焼 こすぎやき 〔富山県〕

天保6年の頃に地元の陶工、高畑与左衛門が開窯した。与左衛門は相馬を始め、瀬戸、美濃、京都など様々な窯元を訪ねては研鑽を重ねたといわれた人物。以来明治30年頃までの約80年間、4代にわたって射水市(旧小杉町)周辺で焼かれたが、明治末期に跡取りの夭逝など不運に見舞われて廃窯した。
昭和に入り二度の再興が試みられたが、戦乱の世の所為もありいずれも短命に終わった。その後昭和45年に池上栄一が小杉焼再興を宣言し、現代風の意匠を採り入れた作品を焼き続けている。

銅青磁釉と飴釉による色合いが特徴。特に「小杉青磁」と呼ばれる緑釉の一種は淡い緑色の発色をしており、緑釉の代表である織部釉とは一味違う落ち着いた色合いを呈している。

[窯元/作家]
栄一窯(池上栄一)

越中瀬戸焼 えっちゅうせとやき 〔富山県〕

富山県立山町瀬戸地区にて焼かれる陶器。瀬戸焼や美濃焼の影響を強く受けている。大胆な施釉が特徴で、釉薬を掛け流した後、高温で焼成する。

文禄3年4月に、加賀藩主の前田利長が尾張国瀬戸より陶工、彦右衛門を招いて焼かせたのが始まりといわれる。藩の御用窯として栄え、尾張の磁器産地「瀬戸」に因んで産地一帯が瀬戸村と名付けられるほど、越中国随一の磁器産地として名を馳せた。
しかし近世に入り幕府の保護がなくなったこと、加えて鉄道の開通によって瀬戸や有田から安価な陶器が流入したことにより競争力を失う。明治・大正時代と進むにつれて多くの窯は瓦業に転じ陶器製業は廃れた。
昭和18年に、地元の有志らの手によって廃窯となっていた窯場を研究、昭和33年に釈永庄二郎が庄楽窯を開窯し、再興に漕ぎ着けた。現在は4つの窯場が伝統的な技法を継承している。

[窯元/作家]
庄楽窯(釋永由紀夫、釋永陽
四郎八窯(加藤聡明)
千寿窯(吉野香岳)
枯芒ノ窯(北村風巳)

五頭焼 ごずやき 〔新潟県〕

五頭温泉郷の窯元。地元の土を使った陶器は少しざらざらした表面が特徴的。

[窯元/作家]
五頭焼倉島窯(倉島義宏)

笹神焼 ささかみやき 〔新潟県〕

五頭温泉郷の窯元。地元の土を使った陶器は少しざらざらした表面が特徴的。

[窯元/作家]
笹神焼宮下窯(渡部久男)

村松焼 むらまつやき 〔新潟県〕

天保12年(1841年)から明治25年(1892年)まで新潟県の村松藩の城下町村松(現・新潟県五泉市)で焼かれた陶器。
伝世品のいくつかは五泉市村松郷土資料館に残されている。

庵地焼 あんちやき 〔新潟県〕

新潟県阿賀野市保田、通称庵地地区で焼かれている陶器で、「庵地の黒」といわれるほど、黒色の釉薬に特徴がある。
1878年(明治11年)村松焼の陶工・旗野直太郎が郷里の庵地で「保田焼」として創業したのが始まり。
昭和の初期、同地には村山、旗野、田村、井上の諸窯があったが、第二次世界大戦を前後に、旗野窯のみが残り、甕、鉢、皿、碗、徳利、片口などの食器のほか、湯たんぽ、火鉢、植木鉢などの雑器を焼いた。
旗野嘉山(嘉一)が継承し、3代目の旗野義山(義夫)が研鑽努力し民芸窯としての地歩を固めた。義山没後は実子の三姉妹が継いでいる。「三姉妹の窯」とよばれる。
津村節子の小説『土恋』は同窯がモデル。



[窯元 LINK]
旗野窯

[取扱店]
三姉妹の窯 庵地焼(直営)