碁点焼 ごてんやき 〔山形県〕

化粧土による、深い藍色の彩色が特徴。
一般的な焼き物は『成形→素焼き→釉薬&模様付け→本焼き』の四段階工程が主だが、泥彩の場合は『成形→化粧土を施す→削る&模様付け→素焼き→透明釉薬を施す→本焼き』という六段階工程をとる。
非常に手間がかかるが、釉薬だけでは得られない個性的な色彩を生み出すことができる。

[作家]鈴木 陶修、鈴木 いく子

[取扱店]陶修窯碁点焼 オンラインショップ

[陶芸体験]陶修窯碁点焼(山形県村山市)(手びねり、絵付け、電動ろくろ、出張教室も)

深山焼 みやまやき 〔山形県〕

昭和36年白鷹町深山で、重要文化財となっている深山観音堂の下を流れる実淵川の段丘の上に古い窯跡が発見され、故・梅村正芳氏が再興した。
現在は「深山工房・つち団子」を主宰する金田利之氏に引き継がれている。
素朴な味わいが魅力の焼物で、成島焼の流れをくむと考えられている。

深山工房つち団子

[陶芸体験]深山工房つち団子(山形県西置賜郡白鷹町)

上の畑焼 かみのはたやき 〔山形県〕

江戸末期に東根の長瀞(ながとろ)藩が地元の陶石を使った作陶を産業にしようと、伊万里の流れを汲む陶工を大阪から招いて開窯したが財政難のためわずか10年ほどで廃窯。
その後、伊藤瓢堂氏が復興を決意して陶芸の修行を積み、よみがえらせた。
白地に藍色の文様が特徴。
伝統の絵付けのなかでも、桃・柘榴(ざくろ)・仏手柑(ぶっしゅかん)を描いた三多紋(さんたもん)が代表的。
最近では金や赤を追加したり、銀山の銀を掘った廃鉱から出る鉄錆を用いた焼き物を製作するなど、現代の生活感覚に合ったさまざまな色を出している。

・銀山上の畑焼陶芸センター(東羽都山窯)
・東羽美山窯


[取扱店/作品]

新庄東山焼 しんじょうひがしやまやき 〔山形県〕

越後出身の陶工・涌井弥兵衛が新庄戸沢藩御用窯として、天保12(1841)年に開窯。
原料は現在も敷地内から採取、よく焼き締まる特性があるため、丈夫で割れにくく、使うほどに風合いが増す陶器として珍重されている。
澄んだ青みの「なまこ釉」が特徴。
現6代目の正和氏は、無釉焼〆(むゆうやきしめ)や木葉天目(このはてんもく)などのアレンジも加えた作品で伝統を紡いでいる。

新庄東山焼オフィシャルサイト

[陶芸体験]新庄東山焼(山形県新庄市)

米沢焼 よねざわやき 〔山形県〕

ルーツは、米沢藩の財政立て直し策として第9代藩主上杉鷹山が興した「成島焼」。
相馬焼の技法を学び、後に相良人形の祖となった相良清左衛門と、藩士の立岩善五郎が指揮して、天明元(1781)年、米沢の成島に御用窯を開いた。
明治期に廃窯、大正期に再興したものの再び廃窯。
昭和50(1975)年から水野哲氏が「米沢焼」として再再興し、「焼き物の里」蘇生を目指している。
黒・白・青色の釉薬をかけて焼く、どっしりとした深い風合いが特徴。

米沢焼 鳴洲窯(なるしまがま)

成島焼 なるしまやき 〔山形県〕

米沢藩主の上杉鷹山が家来の相良清左衛門に相馬焼の技法を学ばせて1891年に開窯。
成島焼は藩の御用窯として栄え、藩政を支えるほど潤いを見せたが、近代に入り衰微し、大正年間には廃窯した。
海鼠釉、黒釉と窯の焼成によって生じる窯変だけで作品を仕上げるのが特徴。
現在は長井市で『成島焼』という名称で和久井富二氏が復興させ、米沢市で『米沢焼(鳴洲窯=なるしまがま)』の名称で水野哲氏が復興させている。

成島焼 和久井窯

平清水焼 ひらしみずやき 〔山形県〕

文政年間(1818〜1829)、相馬藩の安倍覚左エ門が千歳山の南麓・平清水の里を訪れて窯を開き、村内に相馬焼の手法が普及して窯業の一大集落へと発展。
明治中期の最盛期には30軒を超えるまでに至ったが、時代の変遷とともにその規模は縮小し、今では数軒の窯元を残すのみとなっている。
千歳山の原土は鉄分の多い硬い陶石で、陶器と磁器それぞれの成分となる土が採れたことから、両方の焼き物が作られてきた。
窯元により使う釉薬も技法も異なるが、現在は主に石英粗面岩が風化した丸山陶石を使い、窯元ごとに新たな方向性を求めている。

七右エ門窯
青龍窯

[陶芸体験]七右エ門窯(山形県山形市平清水)