尾林焼 おばやしやき 〔長野県〕

南信州飯田に江戸後期より伝わる窯元。
飯田藩の御用窯として、篠田得斎が開窯したと伝えられている。長野県最古の焼き物で、美濃系の窯と言われる。いったん廃絶していたが、文政7年(1824)飯田城主のお庭焼の陶工として瀬戸から招かれた水野儀三郎により再興した。
尾林の地は古くから陶業が行われており、尾林古窯址として知られ、発掘調査もされている。近くにある八幡社(尾林神社)に奉納されていた狛犬には慶長14年(1609)の刻銘があり、在銘のものでは長野県下で最も古く、飯田市文化財に指定されている。
現在、六代目・水野雅史氏が伝統を受け継いでいる。



松代焼 まつしろやき 〔長野県〕

長野県長野市松代地区で焼かれる陶器。
江戸時代中期、第7代松代藩藩主・真田幸専の時代に誕生し、藩の御用窯として栄えた。
寛政の初め頃に唐津で修行を積んだ嘉平次という陶工が開窯し、藍甕を焼いたのが始まりであるが、後の文化13年に松代藩の藩窯として奨励した際、嘉平次窯を買収し、京都から陶工を招いて焼かせた寺尾焼、信楽から陶工を招いた天王山焼、また常滑から陶工を招いた荒神町焼、代官町焼などが生まれた。
主に生活陶器を焼いていたが、安価で大量生産が行われていた伊万里焼や瀬戸焼に圧され、いずれも大正末期〜昭和初期までに全てが廃窯となる。その後、京都の陶工である内島北郎により研究の過程で「松代焼」と名付けられた。
現在の松代焼は1972年(昭和47年)に復興されたものであり、当時から残されていた陶器の欠片と資料を参考に再生している。

青味を帯びた器肌と豪快に流された青緑色の釉薬(青流し)が特徴。青味を帯びるのは、陶土に鉄分を持っているため。緑色の釉薬は松代焼独特のもので、銅を混ぜることによって陶土と反応させ、独特の光沢が生まれるといわれる。

松代陶苑[陶芸体験]
あまかざり工房[陶芸体験]

高遠焼 たかとおやき 〔長野県〕

長野県高遠町(現伊那市)にて焼かれる陶器。文化9年(1812)年に城内に水を引くため、美濃国より陶工を招き土管を焼いたのが始まり。その後は御庭焼として重宝された。明治10年に衰退、昭和初期に一旦廃窯の憂き目に遭うが、近年になって見直され、昭和50年に陶工・唐木米之助が復興、伝統を受け継いだ高遠焼が復活した。

原料の粘土が赤土であるために彩りを出すため釉薬を二重掛けしているのが特徴。緑釉に白釉、深い青を出す瑠璃釉、高遠名物のコヒガンザクラに因んだ桜色の桜釉など。

高遠焼 白山登窯[陶芸体験]

能穴焼 のうけつやき 〔山梨県〕

山梨県韮崎市で焼かれている陶器。窯場の位置が新府城の北にあった能見城の麓、穴山梅雪に緑のある地名「穴山」にあったことから名付けられた。
釉薬への探究から生まれた神秘的な色彩が特徴的。

現在の能穴焼は、代々瓦職人だった初代林茂松が、1935年に山梨にて陶芸に取り組み、「甲斐の陶芸」として再興したもの。
初代の急逝にともない、二代目林茂松が29歳の若さで継承。現在、子息の弘記氏と共に、作陶を続けている。
作品はオブジェが多いが、日用食器も作られる。

林 茂松
林 弘記

日本六古窯(にほんろっこよう)

日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯の総称として小山富士夫が命名した。

瀬戸(愛知県瀬戸市)
常滑(愛知県常滑市)
越前(福井県丹生郡織田町・宮崎村)
信楽(滋賀県甲賀郡信楽町)
丹波(兵庫県多紀郡今田町立杭)
備前(岡山県備前市伊部)

氷坂焼 ひさかやき 〔福井県〕

福井県丹生郡吉野村氷坂(越前市氷坂町)の産。明治初年永宮東助の創業。
昭和40年頃に福井県内で生産する焼き物の名称が『越前焼』に統一された。

織田焼 おたやき 〔福井県〕

福井県丹生郡織田町の焼き物。「越前織田焼」とも。
創業については諸説あり、享禄年間(1528-32)の瓦屋源珍にさかのぼるとか、寛保年間(1741-4)の創業などといわれる。
釉薬を用いず、高温で焼成されるときに薪の灰が器に流れ出し溶け込む自然釉の風合いがある。
昭和40年頃に福井県内で生産する焼き物の名称が『越前焼』に統一された。

越前焼 えちぜんやき 〔福井県〕

福井県丹生郡越前町の主に宮崎地区(旧宮崎村)・織田地区(旧織田町)で焼かれる陶磁器。釉薬を用いずに高温で焼成されるときに薪の灰が器に流れ出し、溶け込む自然釉の風合いがある。

歴史は非常に古く、平安時代から始まったといわれる。長く「織田焼」と呼ばれていたが第二次世界大戦後小山富士夫等により日本六古窯の一つにあげられた際に越前焼と名付けられた。
時代とともに他の古窯が茶器などを焼いていった中、雑器を焼き続けたため、江戸末期から明治には衰退の一途を辿り、一時は廃絶の危機に追い込まれた。
1970年(昭和45年)に越前陶芸村が作られ、復興の契機となる。今日では若い感覚の作品も多く見受けられるが、基本は古くからの焼き締めが中心となっている。1986年(昭和61年)に通商産業省(現在の経済産業省)から伝統工芸品の指定を受けた。

越前焼の興隆と時を同じくして衰退し消滅した能登半島の珠洲焼とは流通範囲がほぼ重なる点と自然釉等の共通点から、越前焼による珠洲焼の駆逐、或いは珠洲焼の技術者達の集団移動等が研究されている。

越前焼.com
福井県陶芸館
窯元一覧

珠洲焼 すずやき 〔石川県〕

平安時代末頃から室町時代後期にかけて、珠洲郡(現在の珠洲市および鳳珠郡能登町の旧内浦町地域)内で生産された焼き物。

製造技術は、古墳時代から平安時代にかけて焼かれた須恵器の技法を受け継いでいる。丘陵の斜面にトンネル状の窖窯を築き、燃料の量に対して供給する空気を制限する還元炎焼成を行ない、1200度以上の高温で焼き締める。さらに火をとめる段階で焚口・煙道を密閉して窯内を酸欠状態にすることで、粘土に含まれる鉄分が黒く発色、焼きあがった製品は青灰〜灰黒色となる。釉薬は使用していないが、焼成中に降りかかった灰が熔けて自然釉を生じ、独特の景色となっている。

製品は、海上輸送によって北海道南部から福井県にかけての日本海側を中心に広く流通した。14世紀には最盛期をむかえて、日本列島の4分の1を商圏とするまでになったが、15世紀後半には急速に衰え、まもなく廃絶した。戦国の世になり、生産・流通の後ろだてであった荘園領主の力が衰え、流通圏確保が難しくなったこと、また越前窯や常滑窯、備前窯などが分業や窯の大型化により、生産性を向上させていったことに対抗できなくなったことなどが衰退の理由と考えられる。

約400年前に忽然と姿を消した珠洲焼を、1976年(昭和51年)珠洲市が復興した。1989年に石川県指定伝統的工芸品の指定を受けている。


珠洲焼資料館
珠洲焼館
珠洲焼創炎会
珠洲市陶芸センター[陶芸体験]


大樋焼 おおひやき 〔石川県〕

石川県金沢市にある、350年の歴史と伝統をもつ楽焼の脇窯。

江戸時代初期の寛文6年(1666年)、加賀藩5代藩主・前田綱紀が京都から茶堂として裏千家四代目の仙叟宗室を招いた際に、楽家4代一入の弟子であった陶工・土師長左衛門が同道し、楽焼の技法を伝えたのが始まり。
明治維新後、藩の御庭焼から民間の窯元として生業を立てざるを得なくなったことや、明治期動乱の茶道の衰退と重なって苦難の時期を迎えることになるが、後継の門人達、またその門人の子孫の制作活動の結果、飴色釉の特色ある稀有な焼物として全国的に知られるようになった。
金沢市橋場町に十代大樋長左衛門窯、大樋美術館がある。

大樋長左衛門窯/大樋美術館


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